お正月が終わり、月曜から仕事始めとなり、正月休みに飽きていたところだったので良かったです。
で、表題の件ですが、最近、娘と母親の間にある『桎梏』みたいなものを考えることがあり、20代の頃に知り合った女性の話をふと思い出しました。
母親の過干渉?が原因で摂食障害に苦しんでいた同年代の女性でした。
「強いあなたが羨ましい」と言われ、でも、あなたは私に無い物を沢山貰っているじゃないと思った。
生活費1ヶ月分のお金だけ持って家を出て、抑うつ神経症と不安障害持ち・対人恐怖症ありで、必死こいておゼゼを稼ぐために頑張っていた私にしてみたら、
東京で中流上の暮らしをしている彼女の生活は羨ましすぎた。
自由な一人暮らしに憧れて実家を出たいのだけれど、母が許してくれない、と言っていた。
良くできたお母さんだよなあ、と夫と一人娘への献身ぶりに「すげえ。」とは思ったけれど、実はそんなお母さんが、
ちょっと、かなり、怖いかも、と思った話もあった。
彼女は確かに裕福な生活はしていたようだけれど、私以上に良く分からない重たいものを背負っていたみたいで、
いつも
「どこかへ行きたい。」「もうしんどくてしんどくて生きていたくない。」
と言っていた。
自分が生きている理由を母親に尋ねたら「子供が欲しかった。産みたくて産んだ。」と答えられた、とものすごい怖い顔で言われたことがあった。
いや、びっくりした。
それは望まれて生まれてきたことなのだから、喜ばしいことなのでは?と私は思ったから。(私は母親に、できたから産んだ。仕方なかった。と言われていた)
でも、彼女にとってはそうではなかったらしい。
それって、
母親のエゴだよね。
と言っていた。
私は、
「そういう考え方もあるかあ。」と驚いた。
人が欲しがっているものが人によっては全然嬉しいものではない、ことがあるんだなと。
「生まれた」「I was born.」と、この世に生を受ける言葉はなぜか「受動態」
吉野弘の『I was born.』という有名な詩がある。
この記事の趣旨とはちょっと違うけれど。
生きることに苦しむ人達の自助グループで知り合った人だったけれど、結局、1年くらいでその集まりには行かなくなってしまった。
あれから、彼女がどうなったのかは知らない。
今回もご訪問ありがとうございました。
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